【スポーツビジネスの戦前or戦後】の線引きは1993年です!!

スポーツ
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最近は「スポーツビジネス」というジャンルが定着してきました。1993年5月に日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)がスタートし、日本の【スポーツビジネス】は転換しました。この年を境に『スポーツビジネス戦前or戦後』という表現ができるかと思います。

皆さま、こんにちは。かつて、Jリーグクラブで2度、働いたことがある不動産屋の2代目社長とっくんです。

前回、この【資産に変えるゾ!!】赤裸々ブログのカテゴリーに【スポーツ】を追加しました!!
この分野は、小生自身の体験を踏まえた実話、赤裸ネタを数多く持っています。

今回の記事では、今後の【スポーツ】のネタを書く上で、皆さまにお知らせするつもりで小生の歩んできた道を中心に書いてみたいと思います。

 

1993年は【Jリーグ発足】の年。スポーツビジネスはこの年を境に!!

1993年5月15日、国立競技場に高らかな音楽が鳴り響き、加盟した10のJリーグクラブの旗が並ぶ中、川渕三郎チェアマンが【Jリーグ開会宣言】をしました。
その映像を見ると、今でも号泣してしまいます。

小生は、その当時、新聞記者をやっていました。
ただ、漠然とですが、Jリーグのスタートをテレビで見た時、『プロサッカーに関わる仕事をやってみたいなぁ~』と思うようになりました。

 

【Jリーグ発足時の加盟クラブ】
・鹿島アントラーズ
・ジェフユナイテッド市原
・浦和レッドダイヤモンズ
・ヴェルディ川崎
・横浜マリノス
・横浜フリューゲルス
・清水エスパルス
・名古屋グランパスエイト
・ガンバ大阪
・サンフレッチェ広島

 

この10クラブがJリーグ発足時からの顔ぶれですが、既に消滅したクラブ、チーム名が変わったクラブ、ホームタウンが変わったクラブがありますね。

最近は、この10クラブをリスペクトして【オリジナル10】と呼ばれています。

 

【秘話 その①】とっくんとサッカービジネスの出会い

プロフィールにも書いていますが、とっくんは『新卒で新聞社に就職→30歳で退職→サッカー選手の代理人→プロサッカーチームのフロント→』という人生を歩んできました。

まずは、ココを説明しないと、読者の皆さまにもご納得を得られないでしょう。

Jリーグが発足した当時は、新聞記者をやっていました。そのころ、小生の高校時代の親友がメキシコの金持ちの女性と結婚メキシコに住んでいました。
その奥さんの一族が同国でサッカークラブのオーナーの一人でした。

Jリーグがスタートしたことは海外でも話題になりましたが、中でも、世界的なプレーヤーだった「ジーコ(ブラジル代表)」「リネカー(イングランド代表)」という名選手が、当時、プロサッカー未開の地である日本のクラブに移籍したというのがインパクトだったようです。

そこで、親友の親戚のコネクションを通じて、メキシコリーグで活躍するトップ選手(後にブラジル代表にもなった)が『Jリーグクラブに移籍したい!!』というのが数人おり、これらの選手の資料映像などを、小生が親友に代わってJリーグクラブに送る、手伝いをすることになりました。

すべてがソコから始まりました!!

 

【秘話 その②】サッカー未経験のとっくんVSJリーグクラブ強化部

最初に書きますが・・・、小生はサッカー経験はぼぼナシです。
少年時代に1年だけチームに所属していた程度です。

そんな小生が、親友の依頼とはいえ『外国のプロサッカー選手の資料映像をJリーグクラブの強化担当』に送り、営業を手伝ったのです。
無謀でしたね(笑)

選手の特徴やアピール点もよく分からず、プロサッカー界のビジネスの方法など、まったくわかっていませんでした。

笑い話ですが、当時の小生は『FIFA(国際サッカー連盟)』という言葉さえ知りませんでした。

 

【秘話 その③】とっくん、新聞社を退社!!

小生は、Jリーグ発足の2年後に新聞社を退社しました。

プロサッカーに関わる仕事をやってみたいという漠然とした希望はありましたが、その手立ては思いつかず、まずは、親友が住むメキシコを見てみたいという気持ちもあり、新聞社をやめてしまいました。

そして、メキシコの親友の所に行き『Jリーグに移籍したい・・・』と話す数人のプロサッカー選手とも会いました。

 

【秘話 その④】とっくん、外国人選手をJリーグに移籍させる!!

新聞社を辞めてフリーになった小生は、親友の手伝いを続けて、ようやく一人の外国人選手をJリーグクラブに移籍させることに成功しました。
サンフレッチェ広島さんです。当時の強化部のトップのIさんが、メキシコまで行き、その選手の実力を確かめてくれたおかげでした!!

このほか、日本サッカー協会の国際委員のIさんの補助で、某県の中学生トレセンチームの「オランダ&ドイツ合宿」の手伝いをしたりしました。

1ヵ月弱くらいですかね、両国のスポーツシューレ(スポーツ施設のこと)に入り、通訳や子どもたちの身の回りの世話などをやりました。

 

【秘話 その⑤】とっくん、そして、プロサッカークラブへ!!

運命は突然やってくるものです。
1997年末、フランスワールドカップを翌年に控えて、日本代表が「ワールドカップ本大会初出場」で盛り上がる中、あるプロサッカークラブから小生に『広報担当のオファー』がきました。

そのクラブに、親友が外国人選手を紹介し移籍させたのが縁でした。

ちなみに、ここではクラブ名はまだ、書きません。すみません。
そのクラブは当時は、Jリーグ加盟ではなく、JFL所属でしたが、1999年以降にJ2リーグのクラブとなりました。

親友がクラブに紹介した選手の一人は、後に『Jリーグの得点王』にもなりました。

 

【歴代Jリーグ得点王】

【2018年】ジョー(名古屋) 24得点/33試合
【2017年】小林悠(川崎F) 23得点/34試合
【2016年】レアンドロ(神戸) 19得点/31試合
ピーター・ウタカ(広島) 19得点/33試合
【2015年】大久保嘉人(川崎F) 23得点/32試合
【2014年】大久保嘉人(川崎F) 18得点/32試合
【2013年】大久保嘉人(川崎F) 26得点/33試合
【2012年】佐藤寿人(広島) 22得点/34試合
【2011年】ケネディ(名古屋) 19得点/31試合
【2010年】前田遼一(磐田) 17得点/33試合
ケネディ(名古屋) 17得点/31試合
【2009年】前田遼一(磐田) 20得点/34試合
【2008年】マルキーニョス(鹿島) 21得点/30試合
【2007年】ジュニーニョ(川崎F) 22得点/31試合
【2006年】ワシントン(浦和) 26得点/26試合
マグノ・アウベス(G大阪) 26得点/31試合
【2005年】アラウージョ(G大阪) 33得点/33試合
【2004年】エメルソン(浦和) 27得点/26試合
【2003年】ウェズレイ(名古屋) 22得点/27試合
【2002年】高原直泰(磐田) 26得点/27試合
【2001年】ウィル(札幌) 24得点/26試合
【2000年】中山雅史(磐田) 20得点/29試合
【1999年】黄善洪(C大阪) 24得点/25試合
【1998年】中山雅史(磐田) 36得点/27試合
【1997年】エムボマ(G大阪) 25得点/28試合
【1996年】三浦知良(V川崎) 23得点/27試合
【1995年】福田正博(浦和) 32得点/50試合
【1994年】オッツェ(市原) 30得点/40試合
【1993年】ディアス(横浜M) 28得点/32試合

小生のプロサッカークラブとの関わりは『誕生間もないクラブの広報担当』でした。

 

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【Jリーグの功績】は、スポーツビジネスのあらゆる事例の基盤を作ったこと!!

話を再び「スポーツビジネス」に戻します。

とっくんがJリーグクラブに直接的な関わりを持ったのは、2005年まででした。
最新の『スポーツビジネス』には関わっていません。

しかしながら、当時からの人脈は今も生きていて、スポーツビジネスに関して情報網もあり、現在も頻繁にやりとりしています。

その上で書きますと・・・、
『スポーツビジネスモデル』は、一般社会のあらゆるビジネスモデルとの共通性があり、テクノロジーの発達とあいまって次世代ビジネスになってきている、と思っています。

 

まとめ:今後のブログ記事にご期待ください!!

今後、【資産に変えるゾ!!】赤裸々ブログでは、実話を元にした切り口から、「スポーツビジネス」「スポーツ普及」「スポーツ育成」を語りたいと思います。

面白いネタも書きますので、今後ともよろしくお願いします。

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